今の宇平橋には、カラフルなかすりのデザインのタイルがはめ込まれたりしている。宇平橋から高速下の長堂橋の間は、クルマで走ることはあっても歩くことは多分少ないだろうね。
川というものは橋がなければ、人民は渡ることができず、天下国家もまた大きく強くなければならない。まして字平の川は、中山の南から発して島の西の海に、よどみなく遠く流れ入っていて、南部地方の住民が首里王府都に行くには、皆この川を渡らないわけにはいかない。それで昔から木の板で橋をかけ、渡るのに心配ないようにしていた。ところが、木喰い虫や風雨のために傷み、たびたび壊れて往来が出来なくなり、住民は苦労にたえなかった。
ここにかたじけなくも、天帝のような臣下思いの徳高いわが国王様は、(中国古代の)夏の禹帝のような治水の計画を思い立たれました。それでまず農事がすんで手のすいた人民の力を活用するようにと、特別に国王のお考えを摂政三司官に示し普請の役人を選び、石工・人夫を督励して新しい石橋を造りました。1690年8月1日に工事を始めたが、多くの百姓男達が加勢にきて日を要せずして9月1日に完成した。
できあがった橋の下では魚が泳ぎ跳り、白い が飛び遊ぶのが見られ、そして雁の鳴き声は月の水辺にひびき、秋の景色は柳の土手(提)にすっきりと感じられる。
人々は往来の自由を得、牛馬は荷を積んで楽に通れるのを喜び、国王の仁政は広くゆきわたり、慈愛は禽獣にまで及んでいる。ああ何と幸せなことか、特に一時代の美挙に終わることなく、世々万代の利益となるのであるから。
さて、ここに小生にこの碑の文を書かされたのであるが、私は何を述べようか。我が国王様の天の神のような徳化により、繁栄の世の末永く安らかなることを祝すのみである。
康熈29年(1690年)九月吉日梁ヌ國吉通事謹んで文章を記す
國相(摂政)尚弘才北谷王子朝愛
法司(三司官)毛國珍池城親方安憲
翁自儀稲嶺親方盛芳
毛國瑞佐渡山親方安治
総奉行 葉慕永友寄親雲上
石奉行 毛應龍宮城親雲上
石 匠 金城筑登之親雲上宜次
一、字平橋普請が完成したので寄親雲上が子供を連れて初渡りした事
一、石細工は、六百七人につき、人夫は延べ八千八百七十三人
一、碑文作り細工は延べ五十五人につき、人夫は延べ二百人
康熈二十九年庚午(1690年)九月六日
筆者 喜納筑登之廣重
同 池原筑登之喜増
彫手 宮城筑登之金城仁也
歴史的資料として当時の社会状況を知る南風原町の貴重な第一級文化財だそうだ。文化センターの入口の正面にあるんだけど、意外と見過ごしやすいかもしれないので、一度、じっくりと見てみるといいかも。
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